映りゆく残像の視感

 

またまた、お久しぶりでございます。
なんかちょっと忙しかったりもして。
でも、こういう「書く」っていう欲求って、なんか波がある気もするんですが・・。
まぁ、言い訳です、はい。

で、昨日は、堂本光一くんのソロコンサートに行ってまいりました。
【嵐さん】以外のジャニーズさんのコンサートは、実は2回目で、
先月は、今井翼くんのソロコンサートに行ってきたんですけども。
なんかね、やっぱ、プロ意識がスゴいなぁ・・と、2人のコンサートに
共通して、感じました。
でもって、光一くんのコンサートなんですけども。
なんかもう、“日本にこういうエンタテインメントを提供出来る人がいたんだ!!”
ってくらい、ものっすごく衝撃的でした。
あれは、コンサートの枠を超えてます。
ジャンル分け出来ないモンだと思いました。
彼はすごく、《生》のほうが伝わる人で。
声とか動きとか、TVより全然奥行きがあって。
存在に香りがあって、物凄く色っぽい。
でも、曲によってハードにもしなやかにもなる。
コンサートの間で、彼に、違う人の像がダブって見える時が何度かあって、
(私は別に、守護霊とか視える人ではありません、念の為)
“なんでだろう・・?”ってずっと考えてたんですけど、
彼はもしかしたら、曲ごとに彼なりの「イメージ上の自分」というものを持っていて、
次々と、そこに自分を当てはめていってるんじゃないか、って思ったんですね。
だから、イメージの彼に、彼自身がダブる。残像みたいに。
そういうのを実際に目にしたのも始めてだったので、それも凄い衝撃で。
で、多分、それとイコールなのだろうけど、光一くんって、踊ってないし、歌ってないの。
こういう書き方は誤解を招くかもしれないので、もう少し噛み砕いて言うと、
「踊ること」や「歌うこと」に重きを置いてるのではなくて、
あくまでも、「魅せる」ことや「表現する」ことを、大切にしてるんだな、って。
「踊ること」や「歌うこと」は、呼吸するぐらいに当たり前なコトになってる。
なんか、シルヴィ・ギエム氏みたいで、日本でそういうことをしてる人がいるってことが、ホントに衝撃でした。
で、そういうスゴイ人なのに、ステージの上で大貧民やっちゃうのよねぇ・・。MAの皆さんと。
いや、私は【嵐さん】で慣れてますけど。(笑)
隣りの席の人が、「前代未聞じゃない・・!?」って言ってたので、珍しいんでしょう、たぶん。
今回のツアータイトルじゃないですけど、ステージ上の光一くんは、合わせ鏡のように、果てしない奥行きを感じさせる人で。
あ、そうそう、ひとつすごく思ったのが、彼って踊りのルーツが見えない人だなってこと。
普通、見えるんですよ。
ジャズとかモダンとかヒップホップとか、元々の型が。
それが全然見えない。
堂本光一”の踊りのスタイルだけが、そこにある。
それはもう、「スタイル」と言うよりも彼自身なのだろうけど、
彼の年齢で、そこまで極めてしまえるということも衝撃的でした。
うん、なんかホント、「衝撃」でしたよ。彼の舞台のタイトルじゃないけど。
ここまでのものを造り上げるのって、才能とか経験とか技術だけじゃなくって、
「意識」とか「姿勢」とかのレベルが半端ないからだと思うし、
それって、彼が少しずつ積み上げて、広げてきたものなんだろうとも思うので。
そういう「生き様」みたいなものを感じられて、ホント、ゾクリとするほど、“居応え”のあるコンサートでした。