liutaia2004-12-10

今日(日付は9日)は、藤原竜也くんと鈴木杏ちゃんが主演の
ロミオとジュリエット』を観てきました。
言わずと知れた、『ウェストサイド〜』の元となったお話で、シェイクスピアの作品です。
観終わって、正直、と言うか、当たり前なんですが、
「幸せ」を感じることはありませんでした。
悲劇ですからね。幸せなワケないんですが。
観ながらふと、シェイクスピアは役に向かって役者に台詞を言わせているけれど、
実は観客に向かって言わせているのではないか、と。
『醜く老いた老婆は、私の夫を褒め称えたその同じ口で、私の夫を罵倒する』
これ、14歳のジュリエットの、ばあやに対する台詞です。(この通りじゃないですけど)
結構、理不尽な台詞が多いんですよ。
ジュリエットの父親が、ジュリエットに向かって、
『お前のようなものは、のたれ死んでしまえ!』
みたいなことも言うし。
シェイクスピアは、役の台詞を通じて、
“あらゆる悲劇の原因となる罪のいくらかは、そこで傍観しているお前達にもあるのだ”
と言っているようで、言葉遊びの中に巧みに隠された、皮肉や非難といったものを感じたりもしました。
ロミオとジュリエット』と『ウェストサイド〜』は、枠組は同じでも、
その根底にあるものは、かなり違うように思います。
それは、救いと希望。その存在。
ロミオとジュリエット』では、ロミオは感情に任せて自ら死を選び、ジュリエットも殉ずる。
『ウェスト〜』では、トニーは殺されてしまうけれど、マリアは生きてゆく。
そして、トニーの死も、絶望の中のものではなく、愛する人の腕の中。
もしかしたら、マリアにはトニーの子供が宿っていて、
愛する人によく似た子供と2人、強く生きていくのかもしれない。
そんな“希望”があるから、『ウェスト〜』を観終わった後は、幸せという感情が残るんじゃないか、と。
『ウェスト〜』には、それ以外にも根底に流れる色々な問題やメッセージがあって、
そういったものを心に残しながらも、最後には“希望”が残る。
そんな風に感じました。
 
今回の『ロミ・ジュリ』、実は、観客の質が悪くて疲れました。
客席で飲食してる人が多かったりとか、あと、なんちゃって評論家とか。
欠点見つけるのは、そんなに偉いのか? って。
って言うか、言えるほど自分は誇れる生き方してるのか? って。
シェイクスピアの作品に関して、自分なりの意見を持ってて、
その意見に基いての評価だったら分かるけど、
単に欠点探し、アラ探し。
もっと普通に、作品を観ることに集中したらいいのに・・。
批判=知識人、とか思ってるのかな。
sigh。