大人が次世代に期待するのは、後悔と弱さを差し引いた、過去の自分の幻影なのかもしれない


優しさっていうのは、強さも含むのだろうなぁ、と、最近の一部の若者(あくまでも一部ね)を見ると、思います。
自分とは違う価値観とか、頑張り方というものを、“違う”ということを前提として、許容していると言えばいいのかな。
ひとつの山(目標)を登る時に、そのルートや期間や方法はいくらでもあって、最短最速で登頂する人もいれば、楽しみながらゆっくり登る人もいる。
それをね、お互いに尊重し合えるだけの強さと度量があるから、他人の頑張りを自分とは違うものとして、受け入れられるのだろうなぁ、と。
あるいは、その“違い”を楽しめるだけの、広さと深さ。
一世代前は、右へ倣えで、人の言うことを聞いてればある程度間違いがなくて、保障もあって、それで一生安泰だったりしたから、
“正しい頑張り方”以外のものを否定する人が多かったけれど。
もっとも、そういった風潮は、ある意味進んでいて、他人を否定する言葉が増えているのも事実で。
ただ、否定語をもっと違うニュアンスで使う傾向もあって。
(キモイとかムカつくって、最近は許容的に使われることも多いみたいだし)
でも、そういうのを感じ取れない大人が大勢いることもまた、否めない事実なわけです。
でね、自分は他人の言う通りにしか頑張れなかった(あるいは頑張らなかった)くせに、他人には期待(と言うか強要)する大人が多いなって。
単純に言うと、夏休みの宿題を、自分は友達のを写してたくせに、自分の子供には「自分でやりなさい」って言う、とかね。
(まぁ、これは例としてはちょっと偏っているけど)
大人の言うことをきくイイコっていうのは、ある種、自分で考えて責任を取るっていうことを放棄しているのだと思うのだけど、
そういうことを“考えて”いる大人ってほとんどいないのかも。
『自己主張』とは、自分の物差しを他人に押し付けることではないはずなのに、なんかね、勘違いしているよね。
・・・って、私もまた、頑張っている若者たちの姿を見て、気付かされているわけなんですけども。
なんかでも、頑張りたいなって思いますよ。
『これでいい』って思いたくない。
自分の可能性は、常に探っていきたいし。
うん。なんかね、そう思うんです。