自分という対象

「好き」という気持ちには、無条件であるという前提はないように思います。
それは、必ず何かしらのきっかけがあるから。
そして、好きの対象となったものに注がれるのは、ある種の期待と、その期待を少しだけ超えてくれるという希望。


前にも書きましたが、他人を応援するというのはラクなことです。
自分は頑張らなくてもいいんですから。
そして、自分の期待に応えてくれないと判断すると、言葉や行動で責め、やがて見限る。
その世界のプロなら、努力するだけじゃなくて、結果も残すことは義務としてあるんでしょうけど、
だからって、ただ見ていただけの人間にとやかく言われる筋合いはないと、私は思います。
スポーツでも、エンタテインメントでも、他の様々なことでも、つまらないと思ったら離れればいい。
それだけのことです。


誰かを応援するだけのエネルギーがあるなら、それを自分に向ければいいのに、と思うことがあります。
自分に期待し、自分の可能性を求めて、自分のために時間を使う。
そして、それ以外の時間で、自分の好きなものを見て、エネルギーをもらう。
人間がみんな、そんな生き方をしようと努力すれば、お互いに良い刺激剤になり得るのに。


自分に期待をして、自分を向上させるために努力している人たちに聞いた話で、わりと共通しているのは、
「好きなことを仕事に出来ていいね。」と言われる、ということ。
でも、彼らにしてみたら、
「サラリーマンは、有給もあって、ボーナスもあって、定年後には年金までもらえていいね。」です。
自分が選んだことだから、自分の人生に責任を持ち、努力しているだけ。
それは、どんな職業でも変わらないと思います。
嫌ならやめればいいんです。
自分の人生なんですから。


もっと自分という対象に期待して欲しい。
自分を諦めないで欲しい。
人間という生き物に対して思うのは、そういうことです。
いつもいつも、言い訳と後悔と振り返るばかりの生き方は、結局そのまま終わるだけ。
自分に常に期待していると、思い通りに行かないこともあるし、辛いこともあるけど、
それでも、自分からだけは離れられないことを知った時、
人間は初めて、他人を無条件に愛せるのだと思います。