発すること、与えること。

自分が持っていないものを持っている人に対して、私は年齢に関係なく、憧憬のようなものを感じるんですが、
そういったものを感じるにつけ、自分の無知さとか浅さとか小ささを、繰り返し実感するんですね。
身近なとこだと、父が毎日、自分の行動計画(予定)表を更新しているのとか、母が家事をテキパキとしていくのとか。
“知らない”ことも“識らない”ことも、今の私にはたくさんあって、それがすごく無力感につながったりする。


辞書とか辞典とか見るの好きなんですけど、これは、言葉が持つ意味の中に、結構、
物事の本質みたいなものが含まれてる感じがして、そういうのを探るのが好きなのかもしれないです。
所詮、言葉。されど、言葉。
言葉にあまり依りたくはないけれど、何かを認識するためには、言葉が必要なのかもしれない。


努力って、才能の一つだなって。
その世界のトップクラスの人達を見るにつけ、思います。
努力出来るのも、才能。
これは、逃げの言葉なのかもしれないけど、
でも、努力の仕方とか、継続する精神力とか、そういうのも才能な気がします。
「努力したけど才能がないから」じゃなくて、「努力する才能がなかった」ってこと。
何かを追い求めて、そこにたどり着こうとする精神力が、「努力」っていう「力」なんじゃないかと思うのです。
・・なんか、言葉の論理みたくなっちゃってますケド。


頑張ってる人達が、たいして頑張ってないであろう人達に、ゴチャゴチャと言われているのを見ると、
《お前ら、そんなに偉いのかっっ!!!》
って、ホントに心底、憤りを感じるんです。
だってたぶん、口で言うしか能のない人達の何十倍も、頑張ってるだろうって思うから。
「それへンでしょ」って思うのは、自分が好きだったり応援してる人が成功すると、
自分が偉いような気になるってこと。
“自分のことのように喜んだり悲しんだりする”のと、“自分が優れていると勘違いする”ことは、
全く違うことだと思うのだけど、なんか、混同してる。
他人を自分の誇りにする前に、自分を誇れるようにすれば。って。
前にも書いたんですけど、頑張ってるのは当人で、応援してる側にはその「痛み」は実感出来てないんだから、
具体案も出せないくせに、ただ粗探しするのは、“優れた人間よりも自分が優れている”っていう優越感を感じたいだけだと思います。
能力のない人間ほど他人のマイナスを強調したがる、と言うか。
自分の出来ないことやしてないことには、フタをしてるくせにね。(もしくは高〜い棚の上か)


なんかね。人間、もっとやれるでしょ、って。
思うわけですよ、自分も含めて。
だから、頑張ってる人とか、何かを成し遂げた人達を見ると、勇気が沸いてくる。
人はここまでやれるんだから、私も少しでも近付きたい。って。
「他人」だけど、でも、「人間」って大きな括りの中では、同じ種に属してるわけだから。
言葉とか、姿勢とか、行動とか、表されたものとか。
そういうのに何かを感じて、自分自身の中に響かせて、自分というベクトルを成長させていけたら、最高、ですね。